トップページ » クラス会報告 » 2004年度

2004年度

KETION会

2010年02月24日(水)

茶谷陽三(新制2回)


 昨年は昭和29年卒業の新制2回生にとって卒業50周年に当り、例年大阪と東京の2ケ所で行っている同窓会(KETION会)を合同で行った。そもそもKETION会の名の由来は、無機化学の某先生のテストの成績が悪くて、けちょんけちょんに(広辞苑によれば、徹底的にけなされたりやりこめられたりして、体を成さないさま)されたことにある。卒業25周年には恩師をご招待してKETION会を盛大に行い、また45周年には、豊中キャンパス待兼山会館において数学、物理、生物との理学部全学科合同の同窓会を行い、45年ぶりの再会を果たした者も少なくなかった。この全学科合同の同窓会は、本来40周年に行われる予定であったが、同窓生にも犠牲者が出た阪神淡路大震災のために延期され、45年目に行われることになったものである。今回50周年を記念して平成16年3月27日千里阪急ホテルにおいて東西合同のKETION会を開き、35名の卒業生中10名の物故者と1名の消息不明者を除いて、出席率67%の16名が参加した。
 現在も重要な地位で活躍している者、事業を営む者、文筆活動をしている者などを除いて、殆んどの者が退職して悠悠自適?の生活を送り、旅行、俳句、テニス、ゴルフ、スキー、菜園いじり、木彫り、漢詩、パソコンなど楽しみも多種多様であるが、とかく集まると体の不調が話題になる年頃になってしまった。人生50年といわれた昔を思えば、大学を出て50年だから致し方のないことであろう。それでも外国から日本人は兎小渥のような小さな家に住み、働き蜂のように働くと比喩された時代にあって科学技術の発展に貢献してきたという自負をもっている事が会話の端々に読み取れる。科学や技術の知見でお蔵入りしていたものが後日再び脚光を浴びることがしばしばある。科学者や技術者にも同じことが言えよう。KETION会は社会貢献の役目を終えたわけではない。(文責:茶谷陽三)(写真は卒業50周年の同窓会)

post by ホームページ管理 |

井畑敏一(新制6回化学)


 私達新制第6回理学部化学科卒業生は"ばけだすの会"という名前で同人雑誌を発行する一方、毎年世話役を決めて会合を持っている。
今年は永井宏氏と和田猛朗氏の世話で、「木曽の御嶽山麓の開田高原」に集合した。参加者は外国在住の2名を含めて現会員32名の中で19名が出席するという盛会裏に開催する事ができたのは同窓生諸民の協力の賜物であると心から感謝している次第です。
初日の5月19日は開田高原の"ひゅって・くらいす"にタ刻の6時に集合したが、ビールで乾杯の後に4人の物故者を偲んで黙祷して集会が始まった。"ひゅって・くらいす"の女主人の心のこもった料理に舌つづみをうち満腹になった後に、各自の近況報告を中心とした挨拶があった。年を重ねたせいか、学生時代に比べると随分話が上手になったが、昔の片鱗が少し残っているのが楽しかった。
2日目は雨天の中、"ひゅって・くらいす"のマイクロバスで木曽福島に出て、薮原で木曽川を渡り、西に進んで奈川渡を経由して上高地に入った。バスから見る大正池は、池中の立ち枯れの木の数も少なくなくなり、昔ほどは追力が無くなっていた。台風の接近で心配していた天気は会員の精進の良さを反映して奇跡的に晴れ間が見え、小雨の中を霧に包まれた穂高連蜂や新緑の化粧榔を眺めながら梓川の清流沿いに散策した。殆どの人は河童橋から梓川を遡って往復6キロの明神池に向かった。
夜は食事の後に、若かりし頃の話や、上高地の感想等で時間を過ごしたが、吉村一平氏のピアノ伴奏による思い出の歌の合唱で、盛り上がり時間の経つのも忘れた。
22日の朝は徐々に晴れ上がった空の下で、1年後の秩父での再開を約して散会し、帰途についた。

post by ホームページ管理 |

へさき康彦(新制高分子学科5回生)


 新制化学科15回生、高分子学科5回生は60歳前後の年代となり、これを機に2004年6月に還暦お祝いの同窓会を行った。これまで関西地区、関東地区で時々ローカルな集まりはあったが、今回6年振りに全国規模の会を計画、場所も東京と大阪の中間、藤枝市で一泊の同窓会となった。主に東海地区に在住する同窓生が幹事となり、全国に呼びかけた結果、28人の参加者を得ることができた。特筆すべきは、米国に在住するNIHの水内清君とオクラホマMCの古武弥成君が同窓会のためにわざわざ来日してくれたことである。
当日、夕方に三々五々参集、卒業以来初めての参加者もいたが、すぐに学生時代の雰囲気にもどり、あちこちで話の輪が広がった。既に仕事をリタイアした人、これからの人など様々であったが、当日は2部構成とし、第1部で、伊藤祥輔君司会の元、地元在住の渡辺正治君が「これからの楽しい定年生活」というテーマで趣味の茶作りを含めた講演を行い、第2部の宴会へと移った。会食をしながらの各人近況報告では質問と野次で大いに盛り上がり、時間の経過と共にアルコール量も増加、小さな輪があちこちに出来、各々談笑に花が咲いた。喫茶室に場所を移してからも、話が尽きず、会は深夜にまで及んだ。
翌朝、皆寝不足気味で朝食、朝風呂に入りながら、学生時代に戻った気分とは裏腹に、改めて歳を取ったことを実感した。名残は尽きなかったが、次回大阪での開催と再開を期して全員帰路についた。
後日、幹事が中心となり本会のアルバムを編集、田辺泰弘君がPCを駆使して全員分を作成、参加者に配布され好評を博した。                                           (新制高分子学科5回生 へさき康彦記)

post by ホームページ管理 |

江口太郎


 われわれの学年は在学中いろいろあったので、まとまりがよいクラスとは言えないかもしれないが、2年前から蛋白研の相本が幹事を務めて、気楽な懇親会を開催している。
 今年で3回目になり、8月7日(土)うだるような暑さの午後3:30、待兼山キャンパスのイ号館に17名が集合した。幹事の計らいで江口が勤務する小さな博物館の宣伝をさせて頂いた。同級生とはいいもので、たちどころに率直な意見を聞けることになる。「エッ、大阪大学総合学術博物館ってこれだけ!」「この将来計画って、ホンマに実現すんのか?」「なに、この部屋の改装に○○万円かかったって。大学やなー、民間だったら1/4で済むんとちゃうか」−−−と言いたい放題である。おわびに博物館パンフレット、『マチカネワニ資料集』、第3回企画展パンフレットをお土産に配り、機嫌を直してもらって記念撮影した(写真1前列左から;武田、西岡、南井、太和田、森口、錦田:後列左から;三谷、湯通堂、石原、正木、江口、松山、中尾、柴田、奥田、祢宜、相本)。
 2次会は場所を千里中央の“北海道”に移し、午後5時前からビールを飲み始めた。ここで、富山から金森が駆けつけ、馬場も合流した。中年のおっさんというよりも既に「初老」の集団であるが、よく飲み、よくしゃべった(写真2)。いろいろ立場の違いはあれど、「最後のご奉公」に近い年代特有の話題が多くなるのは当然であろう。私のまわりでは、薬や化学製品の分野における世界の中の日本の位置が酒の肴になっていた。宴たけなわの頃に最後の参加者、笠井が現れた。最近の大学関係者は私に限らず宣伝がお好きなようで、国際会議の広報活動に努めていた。結局、20名(クラスの約半数)が集まったことになり、これもやはり歳のせいであろうか。
 当日は、サッカーのアジアカップ決勝戦の日で、その様子が気になる連中もおり、午後8時頃に来年の再会を約しておひらきにした。(文責:江口太郎)

post by ホームページ管理 |

任田康夫


 昭和42年度入学の化学科同窓会が、平成16年4月24日(土)午後4時から8時まで新大阪シティプラザで開かれた。今回の幹事は辻喜良君と任田が務めた.二年ぶりの開催とあって、東は遙か鹿島(坂本憲俊君)から、西は福岡(唐崎裕治君)や愛媛(岡田真理子さん)まで遠方からの参加者も多数あり、20名の参加者で賑やかな会となった。今回は、定期的な同窓会が隔年ごとに開かれるようになってから3回目である。
 卒業後、初めて顔を会わせるメンバーも多く、始めのうちは戸惑いのあった参加者も、近況報告や昔の暴露話が進むにつれ、いつしか38年前にタイムスリップし、旧交を温めるとともに、娘の結婚相手の悩みなど共通の話題を発見するなど、楽しいひと時を過ごした。
 今回は辻君の発案で、事前に同窓会名の候補が集められ、当日、投票で決める手はずになっていた。ところが、当日の多くの参加者の挨拶の中で、はからずも我々のクラスの二人の才女が本同窓会の多くの参加者のお目当てであることが判明した。わいわいと言っているうちに、同窓会の名前は、事前に集められたものは全て却下され、我々の永遠のマドンナの旧姓の頭文字を頂いて「杉富会(すぎとみかい)」と決定した。二人の毎回の出席を願うと共に、元男子学生達の出席も促進する、一石二鳥の名案となった。
 その他の趣向として、稲葉章・常任幹事から提供された阪大グッズなどの豪華景品(平成16年度・銀杏祭ポスター、阪大ネーム入りボールペン、栞等)が当たる福引が行われた。予定の4時間は、あっという間に過ぎ去り、次期幹事の入江好夫君と田村光久君が二年後の4月に「杉富会」での再会を約してお開きとなった。(任田康夫)

post by ホームページ管理 |

池中一裕(昭和50年化学科卒)


 昨年12月、昭和50年化学科卒のミニ同窓会が開かれた。10月に横浜で、倉野、土井、森山、水野が集まって飲んだときに、今度は石橋で飲もうということになり、今城君が世話してくれたのだ。懐かしい石橋駅前に集まったのは、関西在住の今城(第一サントリー)、岩佐(沢井製薬)、大須賀(ダイソー)、田辺(小児科医)、三宅(産総研)と、分子生物学会で関西に来ていた森山(名市大)、水野(東北大)の7人だけだったが、卒業以来はじめて会う顔ぶれもあり、大いに盛り上がった。卒業後29年の歳月が流れ、容貌(主に頭髪)の変化著しいものが約3名いたが(写真参照)、そちらに属する私はなぜかホッとして、大須賀、田辺両君に強い親近感を感じたのだった。学生時代の思い出や、中川先生、千原先生など昔習った先生の思い出話で盛り上がったが、特に、北大助手から小児科医に転身した田辺君が、52歳にして20歳近くも年下の女性と最近結婚したということが分かり、皆でいろいろ追求するとともに新婚を祝して乾杯した。1、2次会の後、最後は豊中の岩佐邸にまで全員で押し掛けて、また騒いだ(岩佐君、申し訳ない)。次回は卒後30周年にあたるので、ミニ同窓会ではなく、是非多くの人が集まる大同窓会にしようという話になった。化学科昭和50年卒業あるいは昭和46年入学の人で同窓会の連絡のいっていない人は今城君まで連絡してください。メールアドレスは、imajo@sea.plala.orjpです。(文責:水野健作)

post by ホームページ管理 |