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2022年4月4日  菅 宏 (旧制19回)


 

19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、オランダの物理・化学が世界を大きくリードしました。Lorentzによる電磁気学の発展、Kamerlingh Onnesによるヘリウム液化と超流動・超伝導の発見などはその好例です。今日の化学の教科書にはvan der Waalsやvan’t Hoffの名前が出てきます。今回、オランダ王立化学会は、van’t Hoffが研究したアムステルダム大学の古い研究室を記念すべき化学史跡として保存し、化学のランドマークとする宣言をしました。van’t Hoff (1852-1911) はデルフト工科大学を卒業後、ライデン大学に進学して化学を学び、1874年ユトレヒト大学で博士号を取得しました。1878年にアムステルダム大学の化学科教授に就任し、小さな研究室で精力的研究を始めたのです。

(画像:ブールハーヴェ国立美術館)

1884年、反応速度論に関する著書 Études de Dynamique chimiqueを出版し、反応次数を求める新たな手法を提唱しました。化学平衡の熱力学的法則を適用してファン・ト・ホフの式を導くという画期的方法を提案しました。現代的な意味での化学親和力という概念も導入しています。平衡定数を温度の逆数でプロットし、その勾配から反応エンタルピー、切片から反応エントロピーを求める操作を学生実験で行ったことを思い出します。

また「稀薄溶液の浸透圧は絶対温度と溶液のモル濃度に比例する」という法則を発見し、浸透圧Πを表す式が理想気体の状態方程式と同じ形で表現しうることを示しました。

ΠV =nRT

いずれも物理化学の基礎となった重要な研究成果です。これらの画期的な業績により、1901年に最初のノーベル化学賞を受賞しました。1887年、ドイツのW. Ostwald教授、スエーデンのS. Arrhenius教授とZeitschrift für physikalische Chemieを創刊しています。

van’t Hoff教授の名声が高まると共に、国際的に著名な大学から多くの招聘状が届きました。市議会は足取め策としてファン・ト・ホフ研究所を設置しましたが、これが今日のファン・ト・ホフ分子科学研究所van’t Hoff Institute for Molecular Sciences (HIMS)の歴史的前身です。同大学理学部の研究機関の一つとして大きく発展し、現在では30以上の国籍を持つ約200人の研究者が在籍して活発に研究を進めています。研究対象としては複雑系としての材料化学, 持続可能性のための化学、生体分子系の化学など多岐に亘っています。狭い専門的知識の融合と強い国際的連携が求められているのが特徴です。

博士号取得前の1874年、ファン・ト・ホフは有機化学について画期的なアイデイアに基づいた「現在の化学において用いられている構造式を空間的に拡大する試み」を僅か13頁の小冊子として発表し、やがて化学思考に大きな影響を与えて立体化学の発展に弾みをつけました。天才的な洞察力です。光学活性の説明として炭素の共有結合が正三角錐の中心から頂点方向を向いているという不斉炭素原子説を提唱したのです。パスツールが発見した光学異性体を説明するための仮説で、同門のル・ベルが独立に同じ内容のモデルを提案したためファントホフ・ルベルの法則とも呼ばれます。この理論は余りにも革新的であった為、当時の学会からは賛成よりも批判の方が多かったようです。

実験的検証として行われた結果についての論争は、いまも語り継がれています。Mark博士らはX線回折の結果から、上記仮説と異なる炭素の四角錐構造を結論しました。その回折写真を注意深く見て、読み違いの可能性があることに気付かれた恩師の仁田勇先生は、ペンタエリスリトールC(CH2OH)4結晶のX線回折の実験結果から、正四面体構造の対称性を結論付けました。Mark博士はそれに反論しましたが、最終的には仁田先生の結論が正しいことを認めました。これが切欠となって、二人の間に友人として終生にわたる交流が始まったのです。

[追記] オランダ人の先駆的精神は確実に受け継がれており、最近の金属燃料の開発には独自性と斬新性に驚かされます。夜間の余剰エネルギーを鉄粉の形で蓄え、クリーンな金属燃料として使用するのです。燃焼生成物の酸化鉄は余剰電力で作った水素の還元作用でリサイクルが可能ですし、石油と違って運搬が容易です。2019年、老舗のSwinkels Family Brewers社はこの方法を産業規模で機能させる世界初の企業になりました。年間約1,500万杯のビール製造に必要な加温や煮沸など、すべての熱源となる循環鉄燃料システムを醸造所に設置したのです。政府は全ての企業に対して、このシステムを採用するよう強く促しています。最終目標は2030年までにオランダ中の石炭火力発電所を全て鉄燃料システムに置き換えるとのことで、脱炭素社会の構築を目指して世界をリードしています。

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