永契会の会長時代に多くの会員の協力を得て永契会の歴史を調べ直した結果、事績が二年ほど誤ってずれていることを見出して新しく年表を作成しました。
加えて永契会にかかわる随筆を寄稿したことがあり、掲載します。
(財界の文芸誌「ほほづゑ」99号 2018年に初出。著作権は著者に帰属)
私は昭和二十八年(一九五三年)に大阪大学理学部化学科を卒業した。最後の旧制大学卒業生である。三十一人の同級生にはガン遺伝子の研究でラスカー賞を受賞し、後年文化勲章受賞者となった花房一郎君、物理化学で学士院賞を受賞した菅宏君のような秀才がいた。大阪大学に理学部化学科が誕生したのは昭和七年(一九三二年)のことで、翌八年に十二名の若者が入学している。同窓会は長く存続していたが特別な名前を持ってはいなかった。昭和二十八年(一九五三年)、私が大学を卒業した年に、化学科が開講してから二十年という節目でもあるし同窓会に名前をつけようということになった。高名な有機化学者であり、大阪大学の総長を勤められた真島利行先生に命名をお願いしたところ「永契会」という名前をいただいた。同年発行の『永契会誌』創刊号に真島先生ご自身がこの名前の由来を書いておられる。
そもそもこの会名は明治二十九年(一八九六年)に一高を卒業した、理科の組のものが、その組だけでつくった同窓会に会員の一人の私がつけたものであった。これはその頃会員全部に、動物に因んだ愛称がもれなくついておったので、アニマル・キングダムの頭字を取り、AK会と称したのに、漢字をあてはめたものであった。総員三十名を迎えたが、今でも十数人はまだ健在で、東京で春秋二回会合をつづけている。地方在住または健康上の理由で集まるものは右の半数に近い。前後の年に卒業した組よりは長寿者も多く、学会その他に貢献の大なる人も少なくない。この度阪大の化学同窓会委員の方から、会名をつけよとの委託を受けて、種々考えたが、やがては自然消滅になるほかなき従来のAK会の名をお預けすることにした。そして私はこの新しい永契会がA.KLASSEの会員を多く持てるように永続して、本家であった会よりも一段と縁起の善い歴史を有せられるに至らんことを謹んで祈望する次第である。
生前の真島先生に直接お眼にかかり、ご挨拶をしたのは私たちが最後の世代ではないかと思うが、この寄稿文からも分かるように先生はかなり茶目っ気のある方であったらしい。そんな事情から「永契会」はかつて明治二十九年(一八九六年)第一高等学校理科卒業者の同窓会の名前であったのが現在では大阪大学理学部化学科の同窓会に引き継がれいるわけである。現在六千名を超えるメンバーを擁する「永契会」の会長を私が引き受けたのは二〇〇三年であったが当時は七十年を超える年月の経過とともに会の名前の由来も歴史も忘れ去られていた。私はこれではいけないと考え、いろいろな方のご協力を得て誤りを正し、誰にもわかるように年表を作成した。その過程で個人的な興味から、本来の「永契会」たる明治二十九年(一八九六年)第一高等学校理科の卒業生にはどんな方々がおられたのであろうかと思って調べてみた。官報によると十九名の方々はそれぞれ出身県名と士族・平民の別と氏名が記載されており、そのなかには柴田桂太(植物生理学の権威、高名な無機化学者柴田雄次の兄)、真島利行(漆成分の研究で知られた有機化学者、大阪大学総長)、岡田武松(中央気象台長、世界で初めて船舶からの気象観測情報を無線で中央気象台に報告させる仕組みを作った)、早乙女清房(東京天文台長、ハレー彗星の回帰、皆既日食の観測を行った)、桑木彧雄(科学史学会長、アインシュタインの相対性理論を最初にわが国で紹介した)、大野直枝(植物生理学者、光と重力に反応して屈曲する植物のメカニズムの研究を行った)のように優れた学者がいるのに驚かされた。東京大学予備門として設立された一高がたいへんなエリート校であったことが分る。
さて何年かがたって、ある未知の方から永契会経由で私あてにメールが入った。どうやらこの方は郵便切手や葉書きを収集すフィラテリストらしく、入手された葉書きの写真が添付されていた。日付は昭和二十五年(一九五〇年)十一月十六日、差出人は岡田武松、宛先は早川金之助である。文面は下記の通り。
拝啓 小春日和のよき日に利根河畔の海坊主の宅に於いて再興永契会第二回の会合を催しました。次回は是非貴君の参加をお待ちします。祈健勝。
早乙女清房、永田政吉、服部広太郎、真島利行、岡田武松、(達筆で判読不明)。
実は上記永田政吉の名前は崩し字を私が誤読したものであって、正しくは水田政吉であることがのちに分かるのだが、この時はまったく永田と思い込んでいた。私にメイルを送って来られた方は、この葉書にある「永契会」とはいかなる会なのかを調べたところ、大阪大学理学部化学科の同窓会に辿り着いたので取り敢えず会長の私にメールで問い合わせたということらしい。私は大阪大学化学科の同窓会である「永契会」の名前の由来と昭和二十八年(一九五三年)発足の事実を説明し、一方の明治二十九年(一八九六年)一高理科卒業生の再興永契会がいつまで続いたかは知る由もないこと、葉書きに寄せ書きされた方々のうち永田政吉、服部広太郎と判読不明の一名については私も詳細を知らないが、ほかはいずれも高名な学者であることを書き送った。
その後ここまで調べたからには上記三名の方々の来歴も調べてみなくてはなるまいと考えるに至った。国会図書館で一高の同窓会名簿を探すのには大分手間取ったが、それによると明治二十九年(一八九六年)理科卒業生の名前から早川金之助は海軍の物理学教授、永田政吉は日本石油取締役、服部広太郎は農学部の同年卒業であり、赤坂離宮内にある昭和天皇のための研究所で主任を勤めた生物学者であることも判明した。真島先生の言葉の中に「永契会」のメンバーが三十人とあるのを思い出し、明治二十九年(一八九六年)の卒業生十九名のほかにその後の卒業生もメンバーとして加えられたのではないかと思い、明治三十年(一八九七年)のページもあたってみた。そこには高名な物理化学者片山正夫の名前があり、前記の葉書きをよく見直すと達筆で判読できなかった名前は片山正夫であることが判明した。これで葉書きに寄せ書きをした方々がすべて分かったことになる。永田政吉は高名な学者の間にあってただ一人の産業人なのでどんな人物なのか調べてみたいと思ったもののなかなか決め手がない。ある時散歩していて、たまたま日本石油の本社近くを通りかかったので受付の女性に社史に関して調べたいのでどなたか昔のことに詳しい方にお会いしたいと申し入れた。幸い秘書室とOB会の方が応対してくださり、永田という名前の役員を社史で調べたもののどうしても見つからない。ところが同席していた女子社員が「永の字と水の字は点が有るか無いかだけの違いなので、もしかして水田ではありませんか」と言いだした。眼から鱗とはこのことで早速あたってみたところ、水田氏は東京大学工学部を卒業してガス会社に入社し、のちに日本石油に迎えられて技術分野で枢要な地位を占め、終戦前後に日本石油三代目の社長を勤められた方であることが判明した。
これで岡田武松の葉書きにあるすべての関係者の経歴が明らかになったのだが「利根川河畔の海坊主宅において」というところが分からない。「永契会」の発端であるアニマル・キングダムで誰がどんな動物の綽名をつけられていたのかは不明だが、真島先生のお写真を拝見するといかにも海坊主の綽名にふさわしいような気がするので多分間違いなかろうと私は勝手に解釈していた。ところが或る所で昭和四十三年(一九六八年)に発行された岡田武松の伝記を発見して拾い読みしていたところ、彼は利根川河畔に生まれ育ち、利根川の度重なる氾濫を見て、郷里の大先輩伊能忠敬に触発されて気象学を志したとある。さらに読み進むと学生時代の岡田武松は綽名が海坊主で、彼の風貌と茫洋としたところのある性格に似合いであったと書かれている。私は読みながら笑いがこみ上げてくるのを抑えることができなかった。彼について特筆すべきは、日本海海戦においてかの有名な司令長官東郷平八郎の「この日天気晴朗なれど浪高し」の元になる気象の予報をみずから行い、「天気晴朗なるも浪高かるべし」と電信で送った事実である。これで前掲の葉書きに出てくる内容はすべてが明らかになったことになる。調べついでに第一高等学校同窓会名簿で理科の卒業生を明治二十八年(一八九五年)、以降三十五年(一九〇二年)まで当たってみた。明治二十九年卒以外では三十年卒の片山正夫と三十五年卒の石原純(物理学者にして歌人)を除いて私が名前を知っているような有名人はいなかった。明治二十九年(一八九六年)卒十九名のクラスにいかに秀才が集まっていたかがよく分かる。勿論卒業生の中には国立大学教授は他にもたくさんおられるので、真島先生が「永契会」の仲間が三十名と書かれていることも、二十九年卒が前後の年に卒業した組よりは学会その他に貢献の大なる人が多いと言われていることも充分理解できる。それにしても伝記に掲載されている岡田武松の写真と真島先生の写真とを並べてみると真島先生のほうが海坊主の綽名にふさわしいような感じを受けるのがおかしい。
蛇足になるが私の成城高校時代の親友故相原正彦君が岡田武松の設立になる気象大学の学長であったことも忘れるわけにはいかない。
早川金之助宛、岡田武松差出の葉書 (昭和25年11月16日消印)